1月。寛解導入療法で寛解は見込めない。
年末年始の一時退院も終わり、ゆるゆると入院の日々が戻った1月の中旬、家族が病院に呼ばれる。
母も交えた中での主治医の先生のお話。
結論から言うと。
12月の1ヶ月を費やして行った治療(寛解導入療法1ターム目)に、効果はみられなかったという。
つまり、強い抗がん剤を用いて今いるがん細胞を極限まで減らしても、そのあと増えてきた血液細胞はほとんどが、正常なものでなくやはりがん化した細胞でしかなかったということらしい。
抗がん剤で寛解を目指すことはできない、ということか。つまり、当初の説明としては、寛解導入療法を地固め含めて6タームやるという話であったが、こうなった以上はもうやらないということだ。
2月にかけては、これ以上がんが猛威をふるわないよう弱めの抗がん剤で抑えつつ、異形成症候群に対する薬(ビダーザ)を入れていきましょうということになった。
治療法としていちばんスタンダードかと思われる寛解導入療法ができないという、なんともショッキングな話ではあった。が、本人と家族としては「でも元々、骨髄移植する予定なんだし…?」という心持ちだった為、絶望的な気持ちになったわけではなかった。
ただ、寛解導入法でうまくいく人も多いだろうに、うちはそれもだめかぁと、という心細い気持ちになったのは覚えている。
具体的な骨髄移植の日程などに関する説明はなかったが、それでも、弱い抗がん剤なら通院での点滴で出来るという話に、「家に帰りたい」がこの頃の口癖の母は喜んでいた。
色んな数値は決していいわけではないのだけれど、1月から2月にかけて、一時退院や外泊を何度かすることができた。
外泊とは二泊三日のことで、金曜の夜に病院を出て、日曜の夕方には病院に戻らなければならない。家にいられるのは実質1日と少しという感じなので、病院に戻る時よく母は玄関で泣いた。それを見るのが辛かった。
私はというと、免疫力のない母がいつ風邪や肺炎などの感染症にかかるかわからない状態が不安で、その不安が会社帰りや病院にお見舞いに向かう車中など、いつもいきなり襲ってきて、そんな時は声に出して「大丈夫、大丈夫、ママは絶対治るママは大丈夫」と言っていた。声に出して自分を励まさないと叫び出してしまいそうだった。