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白血病と女王蜂

母が白血病になりました。家族と、旦那と、猫ズと私。

抗がん剤スタート

2016年12月1日、寛解導入療法スタート、つまり、初めての抗がん剤スタート。

今回は8日間、24時間ぶっ続けで投与し、血液中のがん細胞を減らし(同時に正常な血液細胞も破壊してしまう)、投与終了後にヨーイドンでがん細胞と正常な血液細胞がどう増えていくかを3〜4週間かけて見ていく。この過程を約1ヶ月で1ターム。

 

部屋は個室、広くてお風呂もトイレも部屋の中にある。当該がんセンターは建物はとても綺麗である。

とはいえ、何もかも初めてのこと。腕に通したカテーテルから、強い抗がん剤を入れるという話だったので、母も私たちも不安。最初のうちは、個室で良かったねという話しかすることがない。

1.2日目は特に何事もなく過ごしたが、3日目の夜中に41度の高熱、そして吐き気。夜中だから主治医の先生がいなく、心細かったとのこと。

結果からすると胃腸炎だったらしく、症状は翌日の昼過ぎには収まったのだが、母の中で「またなったらどうしよう」という気持ちがその後消えなくなってしまったようだ。

抗がん剤投与中は胃腸炎のみで終わったが、抗がん剤投与後には数日で喉の粘膜が痛み、2日間くらいかけて喉が治ると次は胃の粘膜がやられたせいで胃が痛いと。(粘膜は繋がってるので、痛いのが下に降りていっているイメージ)

 

骨髄穿刺、カテーテルの為の針入れ、血液検査の為の血液採取と、痛いことがたくさん。そしていつ起こるか分からない、様々な副作用。

おまけにいつ家に帰れるのかも分からない。

母は不安だったと思う。

繰り返しになるが、つい1週間前までは、こんなことになるとは思ってもいなかったわけだから。

病名を告知されても、入院の準備を自身の手で行っても、どうしても「突然」感は消えず、この頃は、母も私たち家族も精神的についていけていなかった。

 

ただ1つこの頃で良かったことは、治療の中で輸血やら感染症を防ぐ薬やらを入れてもらったおかげで、中耳炎がスッカリ治ったことだ。

何を話しても1回は「え?」とコントのように聞き返されることは、お互いに結構なストレスだったので、、。

「あんなに治りの悪かった中耳炎がこんなに一瞬で治るなんて…、やっぱり根本は白血病だったんだねぇ」と母がしみじみ話した。

 

因みに母は喉の粘膜が痛くなってから、病院食を食べたがらなくなった。

治療を始めてからは恒常的になんとなく気持ち悪いらしく食欲は元々なかったのだが、喉が痛かった日がトドメになったようで、その後は病院食を運ぶワゴンの音を聞いただけで物凄く憂鬱になるようになってしまったとのこと。

病院食自体は味は普通なのだが、見たくもないらしい。

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富士山が見える。病院生活の始まり。

いよいよ明日から入院という11月の下旬の日は、私も実家で過ごした。姉は育休中でもあるので、今後は実家で父と甥と暮らして毎日母を見舞ってくれるつもりだそうだ。

色々な書類にサインしたり持ち物を準備したりしているうちに夜になり、私が家に帰る段になって、玄関まで母と姉が見送ってくれた。

「今日一緒にいてくれてありがとうね。明日から、行ってくるね」

母が言う。泣いている。思わず母の手を握る。

「私たちがついてるから、不安だろうけど寂しくはさせないから、一緒に頑張ろうね」

私も答えながら、涙声になってしまった。

3人で涙を流しながら抱き合う。

病気のことを聞いてから、きちんと母を抱きしめるのは初めてだった。今後は、もっと手を握ろう。肩を抱こう。抱きしめよう。それでお互い不安が和らぐのなら。

 

県立がんセンター。

ふもとから大きな富士山を見やる時、この大きな建物が視界に入るようになったのは何年前からのことだったか。

覚えていないのは、がんセンターが、自分の生活とは関係のないものだったからだ。

まだ新しく、綺麗な建物。

4Fの造血幹細胞移植棟は全棟無菌室状態で完備されている。

抗がん剤の始まる前、まだ無菌エリアから一般エリアに出ても許される限られた日、家族みんなで上階のレストランへ行った。天気がいい。大きな富士山が見える。

私たちの育った景色だ。私が小さな頃から、またきっと母の小さな頃からも、何も変わらない。

横を見れば、0歳の孫を抱く61歳の幸せな女性がいる。

穏やかの時間の中で、それなのに胸の下のあたりがずっしりと暗く重い。

病気とはこういうものか。

大切な家族が病気だということは、何をしてても、これが最後だったらどうしようという不安が付きまとうことなのだろうか。

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家族の病気を、職場へ報告する

病気の告白の次の日は会社だった。

頭にもやがかかったようではあるが、会社には報告しなければいけないんだろうなという常識が、社会人を8年もしてるとよぎる。

支店長に言わなくちゃ。

ちなみに私は銀行勤めである。

 

朝イチに支店長のところへ行けず、

日中も忙しそうで話せず。

本来なら、直属の上司に話した上で、支店長につないでもらうのだろうか。

でも結婚の報告などとは違うし…

こんなことインターネットで調べる気にもなれない。

直属の上司には、細かく話したくなかったのだ。信頼していないわけではないけれど、直属の上司に話すイコールその同じ役職の人たち全員に知られる という気がした。大体のことはそうやって共有している。

普通の人はどうやって報告してるのだろう。

こんな話、したら絶対私は泣いてしまう。

支店の人みんなに知られるのは嫌だ…。

 

結局、常識外れもいいとこかもしれないが、定時で上がって帰り道に支店に電話して、支店長につないでもらった。

「お忙しいところすみません。昨日私も知ったのですが、私の母が、白血病になってしまいまして…」

出だしから声が震えてしまった。涙でぐじゅぐじゅになりながらも経緯を話す。支店長は大層心配して下さった。「担当上司や周りのみんなには詳しい病名とか話すのがちょっと…」と言うと、快く了承して下さった。「担当上司には俺から簡単に言っておくから。明日また話そう」と。有難い…。

結局、翌日の朝、会議室で今後のことなどを話した。

「家族がいちばん大事だから。」

「お母さんに付いていたい日は、いつでも休むなり早退するなりしていいよ」

本当に、本当に有難いお言葉をいただけた。

また泣いてしまい、すみませんと言うと、

「俺も妹が癌になった時は、泣いてばかりいたよ。」と。

 

直属の上司に初めに言いたくなかったのは、今後の私の身の振り方について、何ら決定権がない彼に話して何になるのだろうという思いがなかったかと言ったら嘘になる。

支店長が休んでいいよと言えば誰も何も言わない。

最初からこんな狡い算段でいたわけではないが、結果として支店長がとても優しい人で、親身になって下さったことでその後の私はとても救われている。

 

病気のことを話して、それで終わりではないのだ。

そこから始まる日々において、それでも仕事最優先でやれよという視線を誰からも受けずに済んだことは感謝してもしきれない。

実際、私は今日まで、事あるごとに有休を使わせていただき母の用事に対応できている。

もしこれで、「そっか大変だけど…仕事に支障が出るようなら言ってね」なんて言われていたら、 有休なんて絶対使えなかっただろう。そして、支障が出るも何も私のやってることなんて誰でも出来るじゃんと泣き、暇な時間でもあろうものならこの時間ママといられたらどんなに良いだろうと泣き、もう辞めてしまおうかと悩み、病気以外のことでの心労も重なり体がついていかなくなり…となることが容易に想像出来る。「仕事とは」という哲学なんて正直今は考えられない。

 

もっと責任感のある人なら、入院する日に心細がる母親がいても、仕事に来るのだろうか。

もっとやりがいのある仕事をしている人なら、骨髄穿刺を外来でやって帰る母親に、自分は迎えに行けないからタクシーを使ってと言うのだろうか。

 

周りを見渡すと、きっとそうするんだろうなという男の人たちばかりだ。

いや女の人でも、私以外の人は、家族が病気でも頻繁に休んだり早退したりしないんだろうなと思う。

でも、私以外の人は、家族が白血病じゃあないもんな。

 

うらやましいな。

 

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骨髄異形成症候群を伴う急性骨髄性白血病

幸いなことに、という表現が正しいのかは分からないが、県でいちばん大きながんセンターが、実家から15分の距離にある。私の家からも車で15分だ。

12月1日から入院。

抗がん剤のスタート。

 

主治医の先生の説明によると。

白血病にもいくつか種類があるが、母は急性骨髄性白血病だという。

それだけでなく、骨髄異形成症候群という症状があること。

異形成なんちゃらとは、血液(赤血球、白血球、血小板)をつくる造血幹細胞が異常をきたし、きちんとした血液が作られない病気。

異形成〜を血液のチンピラとすると、チンピラが更に悪くなったヤクザが白血病(がん)であると。

異形成なんちゃらには、多分ずっと前からかかっていたであろうということ。でも、それがいつ白血病になったかは分からないこと。

また、白血病には、他のがんのようにステージいくつという測り方はないこと。

 

治療の第1ステップとしては、一般的な白血病治療のとおり、抗がん剤寛解導入療法を行う。

これは、1週間の抗がん剤投与を行い、血液中のがん細胞をがん細胞を減らし、具体的には骨髄の中の白血病細胞を5%以下にする(寛解と呼ぶ)目的のもの。しかしこれは正常な血液細胞も破壊してしまう。抗がん剤投与で減りに減った血液細胞が、投与終了後、ヨーイドンで増えていく過程で、がん細胞ではなくて正常な血液細胞がきちんと増えていくことを期待したいと。

ただ母の場合は骨髄の中に異形成なんちゃらのチンピラがいるので、ヨーイドンでチンピラが邪魔をするかもしれない…と。

 抗がん剤投与からのヨーイドンで経過を見るのに約1ヶ月。この寛解導入療法を計6タームやるとのこと。

6ヶ月か…。

ていうか、ただでさえ難しいであろう白血病の治療の、邪魔をするチンピラがいるのか…。

それはショックの追い討ちだった。

 

渡辺謙白血病だったけど治ったよね!」

でも母の白血病渡辺謙のそれとは名前が違った。

「髪の抜けない抗がん剤もあるみたいだし…」

母の抗がん剤はそれではないようだ。

 

11月のあの告白の日から、本やwebで白血病のことを自分なりに調べてきた。

希望を感じる記事や新しい治療法の話題に喜ぶも、母の場合には当てはまらなかったりして、結局は、主治医の先生の方針に託すしかないのだ。

それでも、県西部の医大よりも、母のかかるこの病院の方が人気だよ!安心だよ!という周りの励ましを、根拠は分からないけれど信じるしかないし、母の主治医は物腰も優しくなんたって部長さんだ。

最善の環境で最善の治療を受けて、治してもらうんだ。

 

そう思って自分を励ます。それは今も変わらない。

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家族みんないる時に話すこと

2016年11月。

その日まではいつも通りに過ごしていた。

 

前日、父からメールがあった。

「明日、祝日だからお姉ちゃんの家にママと行くんだけど、一緒に行かない?出来れば陽ちゃんも一緒に」

陽ちゃんとは私の旦那のことである。

このメールを見ても特に何とも思わなかった。

父に電話する。

「明日用事はないけど、小さい方の猫が避妊手術をしたばかりだから、安静にしてるの見てたい気持ちはあるかな」

それを聞いても父が意外と引かなかったので、それじゃあということで一緒に出かけることにした。

両親、姉、私の2人姉妹。

姉は結婚して旦那と、5月に生まれたばかりの男の子と本厚木に住んでいる。

9月に両親姉私甥っ子の5人で行った旅行以来、みんなで集まる機会がなかったからかなと思った。

それか、行きたいごはん屋でもあるのかな?と。

うちには子供はおらず、里親サイトで譲ってもらった4歳の茶トラ(チャメ)と、マンションの駐車場の車のエンジンルームから救い出した0歳のサバ白(ファッジ)がいる。ファッジが避妊手術をしたばかりだが、特に様子もおかしくないので朝から夕方までは家をあけても平気だろうと判断。

 

そして翌日。

いつものようにマンションまで迎えに来てもらい、父の運転で厚木へ向かう。

途中、近所のとんかつチェーンで買ったという人数分のお弁当を持って姉のマンションへ向かう道すがら、母がいつもより口数が少ないのは気づいていたが、その理由にまでは思い至るわけもない。母は数週間前から中耳炎を患っていてまだ治っていなかったので、聞こえにくい耳で会話するのが億劫そうなのは今日に限ったことではなかったから。

デザートはコンビニで買おうかという母の提案に喜ぶ。

「今って、クリスマスケーキのミニチュア版が売ってるんだって!」

無邪気な妹然として私が言うと、母がお金を持たせてくれた。旦那と私だけが車から降りてデザートを買う。

その時々の家族の雰囲気がどうであろうと、無邪気な妹であることが私の役目なのだ。

でもそう振る舞うことにしたのは最近のことだ。

親や子どもという意識の下でいた昔。その枠から解放されそれぞれの我の出てきた「人間」たちの中にいるには、そう振る舞うことが最善だったのだ。

そうすれば、なんとなく会話の弾まない雰囲気の時も、あとは父のたまに出てしまう皮肉屋な発言も、空気ごと受け流してしまえる。

 

姉の家に着く。

甥っ子を中心に和やかに時が過ぎる。

とんかつ弁当を食べ終え、姉が淹れた(ネスプレッソ)コーヒーを、ノリタケのカップに注いで、やっぱりこのカップ本当に可愛いねと盛り上がる。姉夫婦はノリタケが好きなのだ。私は、可愛いお花の模様だからこのカップが好き。

 

そこまでだった。

そこまでは、ただのいつも通りの家族でいられた。

父が外でたばこを吸い終わって部屋に戻り、「今日来たのはね」と話し始める。

「ママのことなんだけど」

その口火の切り方に嫌な予感がした。

 

そこからの父の話は長かった。

中耳炎がなかなか治らないこと。いつもの町医者に行っても、あまりにも治りが遅すぎることに嫌になった母が、自分の判断で別の耳鼻科に行ったこと。そこの先生が、念のためと言って血液検査をしてくれたこと。結果についてその日の夕方に電話がきたこと。

それらの話を、何月何日どこどこの医者で…といったことまで詳細に話すので、内心私は少しイラついた。嫌な予感を早く杞憂にして欲しかったのだ。「でも実際は大したことなかったよ」という言葉を早く言ってくれと思っていた。でもだとしたら、父はこんなに話が下手だったっけ?母の顔が見れない。

 

血液検査の結果について、医師が電話で告げたのは、「白血球の数値が異常に高いです。紹介状を書くのですぐに、がんセンターへ行ってください」

ということ。

翌日がんセンターへ行って検査を受けたこと。

詳細な結果はまだ今日の時点で分からないがと前置きしながらも医者が告げたことは。

「95パーセントの確率で、白血病です」

 

その時私は、ほんの一瞬血の気がひいた気がした。

その病名は、予想の範疇を超えていた。

他の病気なら、何でも良かったのに、よりによって??

月並みな感想である。

同時にちゅうそんのことを思い出す。21歳で白血病で逝ってしまった、本当に大好きだったサークルの先輩。

だけど、亡くなった人と母を白血病という接点でつなげるのは嫌で、今もちゅうそんのことは誰の前でも口に出してはいない。

姉は同じサークルだったから、たぶん同じことを思っていたと思う。そして今に至るまで彼のことを口に出してこない理由も、たぶん同じだ。

身近な人間が二度も白血病になるなんてこんなことあるか?

涙が出てきた。

 

「すぐ入院になるみたい。今日ショウくん(姉旦那。メーカー勤務なので祝日も休みでないのだ)はいないけど、みんなが一緒にいるとこで話したくて。」

と父が結んだ。

 

母が話し出す。

「中耳炎はあくまでただの中耳炎なんだって。でも普通は3週間くらいで治るのがこんな長引いてるのは、白血病のせいで免疫力が落ちてるからだったみたい。」

「すごいショックだけど、まだ死ぬわけにいかないから。絶対勝ってやるって思ってるよ。めげてないよ。」

そうなのだ。私たちもショックなりに、でも乗り越えなきゃ、今はさめざめ泣く時ではないとも思っていた。強い気持ちの方が大きいまま、でも、母がとんかつ弁当をミニサイズにしていたのがこんな理由だったとは、と思いまた涙が出た。姉も口を結んで泣いている。

泣いたら母が切なくなることが分かっていても。

強くいようとそれぞれが口に出してみても。

無邪気な妹は、この空気を変える術を知らない。f:id:Chame_Fudge:20170222174345j:image

書き留めるということ。

「嫌なことや悲しい出来事は、残るのが嫌だから、書き残さない。」

 

そういう考え方を教えてくれたのは姉だった。

 

あれは私が中3の時、姉が高1でオーストラリアに留学している時だったか、電話か手紙でそんな会話をした。後になって思えば、姉は留学先で、いつかになって思い出すこともしたくないような嫌なことがたくさんあったのだろう。でも当時の私は、自分は自分で学校という小さな世界でいっぱいいっぱいだったので、そこに気づいてやることは出来なかった。

その代わり、姉の言葉に納得して、自分も日記を書く時にはネガティヴな出来事は書かないように決め、以来ずっとそうしてきた。(媒体はT.M.Revolutionの手帳からmixiからほぼ日手帳へと変化はあったが)

 

しかし今、無菌病棟の一室で、担当医師の話を一心に書き留めている姉がいる。

 

母が白血病になった。

 

そのことは私にとって悲しく嫌な出来事でしかなかった。

 病名を告白された日から、日記など書いていなかった私はメモ帳も持たずにその部屋へ出向いたけれど、それは間違っていた。

これは向き合わなきゃいけない事なのだ。

なんとなく記憶にとどめないように仕向けてやり過ごせるような事ではないのだ。

悲しくて怖いけれど、書き留めて、受け止めて、考えて、家族として知っておくべきことやすべきことは知識なしにはあり得ないのだ。

 

私はいつも姉に学ばされる。

 

やっと鮮明になる頭で、そんなことを思った。

 

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