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白血病と女王蜂

母が白血病になりました。家族と、旦那と、猫ズと私。

2月。臍帯血移植にむけて。

61歳の母。寛解導入療法が効かなかった母。

1度目の入院(H28.12.1〜12.29)の最初にやった骨髄穿刺によると、血液中のがん細胞の割合は49パーセントだそうです。

そして12月いっぱいの治療と1月の経過観察むなしく、減りはしなかったがん細胞。

2月はビダーザを点滴して異形成何ちゃらを叩きつつ、3月頭に臍帯血移植をするよう調整していこうという話になった。

 最初は骨髄移植をという話だったのだが。

骨髄移植は条件の合うドナーの登録があったとしてもそこからコーディネートを始めて、ドナーの骨髄採取のスケジュールを組んで…となるのでどうしても3〜6ヶ月はかかってしまうらしい。母のように抗がん剤でがんを抑えられない場合は、一刻も早く移植を行う必要があるので、必要の度に採取するわけではなくある意味「商品としてお店に並んでいる」臍帯血を移植することになるとのこと。お店ではなく臍帯血バンクであるが。臍帯血なら2週間ほどで用意できる。

ビダーザでは特に深刻な副作用は出なかった。

なので2月のうち数日間は、外泊や一時退院も出来た。

臍帯血移植をすることに決めた母であるが、先生の説明を私たちなりに最初に解釈した段階では、1.強い強い抗がん剤でまず徹底的にがんを減らして、2.移植。3.そして、そのあとはいわゆる拒否反応が出て、それは例えば喉や胃の粘膜が痛んだり、すごい下痢をしたり…?

1の時には免疫力がゼロなわけで、その時期に感染症にかかって死んでしまうかもしれない。

2の手術は何時間にも及ぶ大手術なんだろうか。

3の症状は個人差があると先生はおっしゃっていたが、母にはどんな症状が出るのだろうか。深刻な症状が出て、死んでしまうこともあるのだろうか…

 

当たり前だが、何も分からなくて。

先生が説明してくれてる時はフンフンと分かったような気がするのだが少し経つと分からなくなってしまうことなどもあって。気になることがあっても、結局はやってみないと何とも言えないということばかりで。

母は、毎日眠れないと言った。

 

そんな2月。

ある事件が起きた。

 

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1月。寛解導入療法で寛解は見込めない。

年末年始の一時退院も終わり、ゆるゆると入院の日々が戻った1月の中旬、家族が病院に呼ばれる。

母も交えた中での主治医の先生のお話。

結論から言うと。

12月の1ヶ月を費やして行った治療(寛解導入療法1ターム目)に、効果はみられなかったという。

つまり、強い抗がん剤を用いて今いるがん細胞を極限まで減らしても、そのあと増えてきた血液細胞はほとんどが、正常なものでなくやはりがん化した細胞でしかなかったということらしい。

抗がん剤寛解を目指すことはできない、ということか。つまり、当初の説明としては、寛解導入療法を地固め含めて6タームやるという話であったが、こうなった以上はもうやらないということだ。

2月にかけては、これ以上がんが猛威をふるわないよう弱めの抗がん剤で抑えつつ、異形成症候群に対する薬(ビダーザ)を入れていきましょうということになった。

 

治療法としていちばんスタンダードかと思われる寛解導入療法ができないという、なんともショッキングな話ではあった。が、本人と家族としては「でも元々、骨髄移植する予定なんだし…?」という心持ちだった為、絶望的な気持ちになったわけではなかった。

ただ、寛解導入法でうまくいく人も多いだろうに、うちはそれもだめかぁと、という心細い気持ちになったのは覚えている。

 

具体的な骨髄移植の日程などに関する説明はなかったが、それでも、弱い抗がん剤なら通院での点滴で出来るという話に、「家に帰りたい」がこの頃の口癖の母は喜んでいた。

色んな数値は決していいわけではないのだけれど、1月から2月にかけて、一時退院や外泊を何度かすることができた。

外泊とは二泊三日のことで、金曜の夜に病院を出て、日曜の夕方には病院に戻らなければならない。家にいられるのは実質1日と少しという感じなので、病院に戻る時よく母は玄関で泣いた。それを見るのが辛かった。

 

私はというと、免疫力のない母がいつ風邪や肺炎などの感染症にかかるかわからない状態が不安で、その不安が会社帰りや病院にお見舞いに向かう車中など、いつもいきなり襲ってきて、そんな時は声に出して「大丈夫、大丈夫、ママは絶対治るママは大丈夫」と言っていた。声に出して自分を励まさないと叫び出してしまいそうだった。

 

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父と姉の大ゲンカ

誠に恥ずかしい話ではあるが、読んでる人も少ないので記録として書きます。

 

12月に父と姉が大ゲンカをした。

乳飲み子を連れて、母不在の実家で一緒に暮らす中で、姉が父にブチ切れたのである。

予兆は私も姉から感じていたが、まさか同居生活1ヶ月もたたないうちに、われわれ家族史上1.2位を争う大ゲンカへ発展するとまでは思っていなかった。

(ちなみに1位は、12年前のシンガポール国際空港での大ゲンカ)

ブログの最初でも触れたが、父は少し嫌味がちというかなんというか、不満を小出しに口や態度に出すことで自分のバランスを取っているところがある。当然父なりにその嫌味なり態度なりをする理由(不満)があるのであろうが、「楽しくする努力は怠るくせに、機嫌の垂れ流しを目の当たりにさせられる側はたまらない」というのが概ね昔からの姉と母の意見で、無邪気な妹の私は父のそういうところに、都度気付きはしても割と気にならないから間に立って空気が最悪になるのを防ぐ、というのが我が家のパターンであった。

 

父が姉に起因していないこと(疲れてる、等)で嫌な言動をする⇨姉は怒りが溜まり、父に優しく接するのが馬鹿馬鹿しくなってくる⇨父「なーんかお姉ちゃんピリピリしてる。パパだって掃除とか頑張ってるのに…」⇨すれ違う心⇨〜繰り返し〜⇨姉キレる⇨姉出て行く⇨私、召喚される(夜) …

という流れだったのだが…書いててこんなこと世界に向けて発信することではないなとも思うのだが…。

多分わが家は、周りから見ればとても仲の良い家族だと思う。大人になってからも一緒に海外旅行に何度も行ったし、去年の父の誕生日には還暦祝いとして表参道のレストランにみんなで出かけて盛大にやったりもした。表参道、というところがポイントである。

母が白血病になったと親しい間柄の人に告げると必ず、「家族みんなで力を合わせてママを支えてあげてね」「あなたたちファミリーなら絶対乗り越えられる」と、優しい言葉をかけてもらったものだが、現実には、ひと月もたたないうちに長女と父は喧嘩をし、次女は右往左往してるだけ。でも確かにこの時、母の病気発覚から緊急入院、一時退院が見えてきた頃、私たちはそれぞれ辛い現実に立ち向かいながら母の為に出来ることを精一杯していた。していたけれど、例えば一時退院する母の為に実家をチリひとつない状態に仕上げる掃除のやり方や捨てる家具類のことひとつひとつで軋轢は生じ、父はそれに対して憤り、姉はこんな時になっても自分の悪いところじゃなく掃除の話にすり替える父に苛立った。相手の何を許せないかという家族それぞれの主張があったので、起こるべくして起きた大喧嘩である。

畏れ多くも最年少の私が各人の話を聞き、父は姉との論点の違いに気付いてくれ、一応は姉に謝ったが、姉は母の一時退院までは私の家に滞在して父とは距離をおくことになった。

 

私たち家族は美しく一丸となって母の闘病の日々の最初のひと月を送ることは正直、出来なかった。

こんな時に、喧嘩してる場合じゃないだろうという話だけれど。

でも、こんな時に家族喧嘩してしまったけれど、そんな中で、それぞれが母の病気の毎日の数値を見るにつけ、今後のことを思うにつけ、不安になって泣いていた。そんな中で、父も姉も私も毎日病院にお見舞いに行って、父と姉は毎日母の洗濯物をやってくれ、姉はたくさんのストレスの中、7ヶ月ベイビーを育てていた。みんなで毎週末かけて、実家の不要な家具や思い出の品を整理し、1トントラックを呼んで産廃業者に持って行ってもらい、カーテンと布団をクリーニングに出した。父は、ダイソンのいちばんいいコードレス掃除機を買ってくれた。

すべては母の一時退院の為に。病気を治してもらってこれからも暮らす家を、母にとって快適なものにする為に。

こうして事件も起こりつつ、それでも母を中心に、家族は過ごしていたのだった。

これが今のありのままのうちの家族の形なのだろう。

 

ちなみに母は、姉が耐えきれず父のことを愚痴ると、急にイキイキとして対応を指示していた。

我が家の女性陣はこういう時、とても結束力が強いのである。

 

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年末年始、一時退院、1月

一度目の入院で髪も抜け、体重も6キロ落ちてしまった母であるが、2016年12月30日から新年1月4日まで、一時退院させてもらえることになった。

それに向け、12月中から実家の大規模なそうじを皆んなで頑張ってきたのだ。

頼んだオードブルはほんの2.3口しか食べれなくても、8ヶ月になった孫を元気よく抱いて姉の育児の手伝いをすることは出来なくても、やっと、いつもの景色を取り戻した気がした。家に母がいるということ。

和室で客用の布団を並べ、姉と(甥と)寝ていると、母がやってきて、母を挟んで母娘川の字でおしゃべりをした。

これが最後にならないといいなという思いが、何をしていても頭をよぎる。

 

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12月の1ヶ月間。

抗がん剤は予定通り8日間で終了。

スタートから2週間後、夜中にトイレで起きた時に貧血で倒れたという母。文字通り血が足りていないから。

「ヤダ〜気をつけてね」という軽い問題ではないらしく、これからはトイレに起きるときは毎回ナースコールしてねとの指導。倒れて頭を打って脳に傷がついたり怪我をしてしまっても、今の母ではその治療に耐えられるだけの体力と抵抗力がないからだそうだ。

 

下旬になると髪が抜け始めた。

元々ベリーショートがトレードマークな母。

入院する前に、「どうせ抜けるのなら、処理がめんどくさくないように短くしておこうかな」と言って病院の中にある美容室へ行ったら、「そう言っていらっしゃる方が、今のお母様くらいの髪型になさってくんですよ」と言われて父と母と笑った。結局そこでは髪は切らず、ガーゼ生地のピンク色の帽子を買った。

髪が抜けること。分かってはいたけれど、その様子を見るのはやはり辛い。

下のコンビニでコロコロ買ってきて、と言う母に、なんでもないことのように「分かった〜割高じゃないといいねえ」なんて答えたけれど、病室を出たら涙がこぼれた。

 

毎日、育休中の姉が昼間、父と私が仕事帰りの夜19時から面会終了時間の20時までお見舞いに行く。

吐くほどじゃないけどいつもなんとなく気持ち悪い、たくさん食べたらまた胃腸炎になるかもしれなくて怖い。

そう言って、夕飯はいつも半分も食べられていなかった。昼もそんなもんだったようだ。

母は12月の1ヶ月間で6キロ痩せた。

156cmで55キロだったから元々は中肉中背。

首元と肩が目に見えて細くなって悲しかったな。

ご飯食べなと言われることはストレスなようなので私は言えない。

外のものなら食べたいものがあるようだったが、冷凍食品など、外部から持ち込んで食べてもいいものがあるなんてそのときは知らなかったので、年末年始は一時退院してよさそうだと分かると、帰ったら何を食べようか?という話ばかりしていた。

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抗がん剤スタート

2016年12月1日、寛解導入療法スタート、つまり、初めての抗がん剤スタート。

今回は8日間、24時間ぶっ続けで投与し、血液中のがん細胞を減らし(同時に正常な血液細胞も破壊してしまう)、投与終了後にヨーイドンでがん細胞と正常な血液細胞がどう増えていくかを3〜4週間かけて見ていく。この過程を約1ヶ月で1ターム。

 

部屋は個室、広くてお風呂もトイレも部屋の中にある。当該がんセンターは建物はとても綺麗である。

とはいえ、何もかも初めてのこと。腕に通したカテーテルから、強い抗がん剤を入れるという話だったので、母も私たちも不安。最初のうちは、個室で良かったねという話しかすることがない。

1.2日目は特に何事もなく過ごしたが、3日目の夜中に41度の高熱、そして吐き気。夜中だから主治医の先生がいなく、心細かったとのこと。

結果からすると胃腸炎だったらしく、症状は翌日の昼過ぎには収まったのだが、母の中で「またなったらどうしよう」という気持ちがその後消えなくなってしまったようだ。

抗がん剤投与中は胃腸炎のみで終わったが、抗がん剤投与後には数日で喉の粘膜が痛み、2日間くらいかけて喉が治ると次は胃の粘膜がやられたせいで胃が痛いと。(粘膜は繋がってるので、痛いのが下に降りていっているイメージ)

 

骨髄穿刺、カテーテルの為の針入れ、血液検査の為の血液採取と、痛いことがたくさん。そしていつ起こるか分からない、様々な副作用。

おまけにいつ家に帰れるのかも分からない。

母は不安だったと思う。

繰り返しになるが、つい1週間前までは、こんなことになるとは思ってもいなかったわけだから。

病名を告知されても、入院の準備を自身の手で行っても、どうしても「突然」感は消えず、この頃は、母も私たち家族も精神的についていけていなかった。

 

ただ1つこの頃で良かったことは、治療の中で輸血やら感染症を防ぐ薬やらを入れてもらったおかげで、中耳炎がスッカリ治ったことだ。

何を話しても1回は「え?」とコントのように聞き返されることは、お互いに結構なストレスだったので、、。

「あんなに治りの悪かった中耳炎がこんなに一瞬で治るなんて…、やっぱり根本は白血病だったんだねぇ」と母がしみじみ話した。

 

因みに母は喉の粘膜が痛くなってから、病院食を食べたがらなくなった。

治療を始めてからは恒常的になんとなく気持ち悪いらしく食欲は元々なかったのだが、喉が痛かった日がトドメになったようで、その後は病院食を運ぶワゴンの音を聞いただけで物凄く憂鬱になるようになってしまったとのこと。

病院食自体は味は普通なのだが、見たくもないらしい。

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富士山が見える。病院生活の始まり。

いよいよ明日から入院という11月の下旬の日は、私も実家で過ごした。姉は育休中でもあるので、今後は実家で父と甥と暮らして毎日母を見舞ってくれるつもりだそうだ。

色々な書類にサインしたり持ち物を準備したりしているうちに夜になり、私が家に帰る段になって、玄関まで母と姉が見送ってくれた。

「今日一緒にいてくれてありがとうね。明日から、行ってくるね」

母が言う。泣いている。思わず母の手を握る。

「私たちがついてるから、不安だろうけど寂しくはさせないから、一緒に頑張ろうね」

私も答えながら、涙声になってしまった。

3人で涙を流しながら抱き合う。

病気のことを聞いてから、きちんと母を抱きしめるのは初めてだった。今後は、もっと手を握ろう。肩を抱こう。抱きしめよう。それでお互い不安が和らぐのなら。

 

県立がんセンター。

ふもとから大きな富士山を見やる時、この大きな建物が視界に入るようになったのは何年前からのことだったか。

覚えていないのは、がんセンターが、自分の生活とは関係のないものだったからだ。

まだ新しく、綺麗な建物。

4Fの造血幹細胞移植棟は全棟無菌室状態で完備されている。

抗がん剤の始まる前、まだ無菌エリアから一般エリアに出ても許される限られた日、家族みんなで上階のレストランへ行った。天気がいい。大きな富士山が見える。

私たちの育った景色だ。私が小さな頃から、またきっと母の小さな頃からも、何も変わらない。

横を見れば、0歳の孫を抱く61歳の幸せな女性がいる。

穏やかの時間の中で、それなのに胸の下のあたりがずっしりと暗く重い。

病気とはこういうものか。

大切な家族が病気だということは、何をしてても、これが最後だったらどうしようという不安が付きまとうことなのだろうか。

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