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白血病と女王蜂

母が白血病になりました。家族と、旦那と、猫ズと私。

父と姉の大ゲンカ

誠に恥ずかしい話ではあるが、読んでる人も少ないので記録として書きます。

 

12月に父と姉が大ゲンカをした。

乳飲み子を連れて、母不在の実家で一緒に暮らす中で、姉が父にブチ切れたのである。

予兆は私も姉から感じていたが、まさか同居生活1ヶ月もたたないうちに、われわれ家族史上1.2位を争う大ゲンカへ発展するとまでは思っていなかった。

(ちなみに1位は、12年前のシンガポール国際空港での大ゲンカ)

ブログの最初でも触れたが、父は少し嫌味がちというかなんというか、不満を小出しに口や態度に出すことで自分のバランスを取っているところがある。当然父なりにその嫌味なり態度なりをする理由(不満)があるのであろうが、「楽しくする努力は怠るくせに、機嫌の垂れ流しを目の当たりにさせられる側はたまらない」というのが概ね昔からの姉と母の意見で、無邪気な妹の私は父のそういうところに、都度気付きはしても割と気にならないから間に立って空気が最悪になるのを防ぐ、というのが我が家のパターンであった。

 

父が姉に起因していないこと(疲れてる、等)で嫌な言動をする⇨姉は怒りが溜まり、父に優しく接するのが馬鹿馬鹿しくなってくる⇨父「なーんかお姉ちゃんピリピリしてる。パパだって掃除とか頑張ってるのに…」⇨すれ違う心⇨〜繰り返し〜⇨姉キレる⇨姉出て行く⇨私、召喚される(夜) …

という流れだったのだが…書いててこんなこと世界に向けて発信することではないなとも思うのだが…。

多分わが家は、周りから見ればとても仲の良い家族だと思う。大人になってからも一緒に海外旅行に何度も行ったし、去年の父の誕生日には還暦祝いとして表参道のレストランにみんなで出かけて盛大にやったりもした。表参道、というところがポイントである。

母が白血病になったと親しい間柄の人に告げると必ず、「家族みんなで力を合わせてママを支えてあげてね」「あなたたちファミリーなら絶対乗り越えられる」と、優しい言葉をかけてもらったものだが、現実には、ひと月もたたないうちに長女と父は喧嘩をし、次女は右往左往してるだけ。でも確かにこの時、母の病気発覚から緊急入院、一時退院が見えてきた頃、私たちはそれぞれ辛い現実に立ち向かいながら母の為に出来ることを精一杯していた。していたけれど、例えば一時退院する母の為に実家をチリひとつない状態に仕上げる掃除のやり方や捨てる家具類のことひとつひとつで軋轢は生じ、父はそれに対して憤り、姉はこんな時になっても自分の悪いところじゃなく掃除の話にすり替える父に苛立った。相手の何を許せないかという家族それぞれの主張があったので、起こるべくして起きた大喧嘩である。

畏れ多くも最年少の私が各人の話を聞き、父は姉との論点の違いに気付いてくれ、一応は姉に謝ったが、姉は母の一時退院までは私の家に滞在して父とは距離をおくことになった。

 

私たち家族は美しく一丸となって母の闘病の日々の最初のひと月を送ることは正直、出来なかった。

こんな時に、喧嘩してる場合じゃないだろうという話だけれど。

でも、こんな時に家族喧嘩してしまったけれど、そんな中で、それぞれが母の病気の毎日の数値を見るにつけ、今後のことを思うにつけ、不安になって泣いていた。そんな中で、父も姉も私も毎日病院にお見舞いに行って、父と姉は毎日母の洗濯物をやってくれ、姉はたくさんのストレスの中、7ヶ月ベイビーを育てていた。みんなで毎週末かけて、実家の不要な家具や思い出の品を整理し、1トントラックを呼んで産廃業者に持って行ってもらい、カーテンと布団をクリーニングに出した。父は、ダイソンのいちばんいいコードレス掃除機を買ってくれた。

すべては母の一時退院の為に。病気を治してもらってこれからも暮らす家を、母にとって快適なものにする為に。

こうして事件も起こりつつ、それでも母を中心に、家族は過ごしていたのだった。

これが今のありのままのうちの家族の形なのだろう。

 

ちなみに母は、姉が耐えきれず父のことを愚痴ると、急にイキイキとして対応を指示していた。

我が家の女性陣はこういう時、とても結束力が強いのである。

 

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年末年始、一時退院、1月

一度目の入院で髪も抜け、体重も6キロ落ちてしまった母であるが、2016年12月30日から新年1月4日まで、一時退院させてもらえることになった。

それに向け、12月中から実家の大規模なそうじを皆んなで頑張ってきたのだ。

頼んだオードブルはほんの2.3口しか食べれなくても、8ヶ月になった孫を元気よく抱いて姉の育児の手伝いをすることは出来なくても、やっと、いつもの景色を取り戻した気がした。家に母がいるということ。

和室で客用の布団を並べ、姉と(甥と)寝ていると、母がやってきて、母を挟んで母娘川の字でおしゃべりをした。

これが最後にならないといいなという思いが、何をしていても頭をよぎる。

 

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12月の1ヶ月間。

抗がん剤は予定通り8日間で終了。

スタートから2週間後、夜中にトイレで起きた時に貧血で倒れたという母。文字通り血が足りていないから。

「ヤダ〜気をつけてね」という軽い問題ではないらしく、これからはトイレに起きるときは毎回ナースコールしてねとの指導。倒れて頭を打って脳に傷がついたり怪我をしてしまっても、今の母ではその治療に耐えられるだけの体力と抵抗力がないからだそうだ。

 

下旬になると髪が抜け始めた。

元々ベリーショートがトレードマークな母。

入院する前に、「どうせ抜けるのなら、処理がめんどくさくないように短くしておこうかな」と言って病院の中にある美容室へ行ったら、「そう言っていらっしゃる方が、今のお母様くらいの髪型になさってくんですよ」と言われて父と母と笑った。結局そこでは髪は切らず、ガーゼ生地のピンク色の帽子を買った。

髪が抜けること。分かってはいたけれど、その様子を見るのはやはり辛い。

下のコンビニでコロコロ買ってきて、と言う母に、なんでもないことのように「分かった〜割高じゃないといいねえ」なんて答えたけれど、病室を出たら涙がこぼれた。

 

毎日、育休中の姉が昼間、父と私が仕事帰りの夜19時から面会終了時間の20時までお見舞いに行く。

吐くほどじゃないけどいつもなんとなく気持ち悪い、たくさん食べたらまた胃腸炎になるかもしれなくて怖い。

そう言って、夕飯はいつも半分も食べられていなかった。昼もそんなもんだったようだ。

母は12月の1ヶ月間で6キロ痩せた。

156cmで55キロだったから元々は中肉中背。

首元と肩が目に見えて細くなって悲しかったな。

ご飯食べなと言われることはストレスなようなので私は言えない。

外のものなら食べたいものがあるようだったが、冷凍食品など、外部から持ち込んで食べてもいいものがあるなんてそのときは知らなかったので、年末年始は一時退院してよさそうだと分かると、帰ったら何を食べようか?という話ばかりしていた。

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抗がん剤スタート

2016年12月1日、寛解導入療法スタート、つまり、初めての抗がん剤スタート。

今回は8日間、24時間ぶっ続けで投与し、血液中のがん細胞を減らし(同時に正常な血液細胞も破壊してしまう)、投与終了後にヨーイドンでがん細胞と正常な血液細胞がどう増えていくかを3〜4週間かけて見ていく。この過程を約1ヶ月で1ターム。

 

部屋は個室、広くてお風呂もトイレも部屋の中にある。当該がんセンターは建物はとても綺麗である。

とはいえ、何もかも初めてのこと。腕に通したカテーテルから、強い抗がん剤を入れるという話だったので、母も私たちも不安。最初のうちは、個室で良かったねという話しかすることがない。

1.2日目は特に何事もなく過ごしたが、3日目の夜中に41度の高熱、そして吐き気。夜中だから主治医の先生がいなく、心細かったとのこと。

結果からすると胃腸炎だったらしく、症状は翌日の昼過ぎには収まったのだが、母の中で「またなったらどうしよう」という気持ちがその後消えなくなってしまったようだ。

抗がん剤投与中は胃腸炎のみで終わったが、抗がん剤投与後には数日で喉の粘膜が痛み、2日間くらいかけて喉が治ると次は胃の粘膜がやられたせいで胃が痛いと。(粘膜は繋がってるので、痛いのが下に降りていっているイメージ)

 

骨髄穿刺、カテーテルの為の針入れ、血液検査の為の血液採取と、痛いことがたくさん。そしていつ起こるか分からない、様々な副作用。

おまけにいつ家に帰れるのかも分からない。

母は不安だったと思う。

繰り返しになるが、つい1週間前までは、こんなことになるとは思ってもいなかったわけだから。

病名を告知されても、入院の準備を自身の手で行っても、どうしても「突然」感は消えず、この頃は、母も私たち家族も精神的についていけていなかった。

 

ただ1つこの頃で良かったことは、治療の中で輸血やら感染症を防ぐ薬やらを入れてもらったおかげで、中耳炎がスッカリ治ったことだ。

何を話しても1回は「え?」とコントのように聞き返されることは、お互いに結構なストレスだったので、、。

「あんなに治りの悪かった中耳炎がこんなに一瞬で治るなんて…、やっぱり根本は白血病だったんだねぇ」と母がしみじみ話した。

 

因みに母は喉の粘膜が痛くなってから、病院食を食べたがらなくなった。

治療を始めてからは恒常的になんとなく気持ち悪いらしく食欲は元々なかったのだが、喉が痛かった日がトドメになったようで、その後は病院食を運ぶワゴンの音を聞いただけで物凄く憂鬱になるようになってしまったとのこと。

病院食自体は味は普通なのだが、見たくもないらしい。

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富士山が見える。病院生活の始まり。

いよいよ明日から入院という11月の下旬の日は、私も実家で過ごした。姉は育休中でもあるので、今後は実家で父と甥と暮らして毎日母を見舞ってくれるつもりだそうだ。

色々な書類にサインしたり持ち物を準備したりしているうちに夜になり、私が家に帰る段になって、玄関まで母と姉が見送ってくれた。

「今日一緒にいてくれてありがとうね。明日から、行ってくるね」

母が言う。泣いている。思わず母の手を握る。

「私たちがついてるから、不安だろうけど寂しくはさせないから、一緒に頑張ろうね」

私も答えながら、涙声になってしまった。

3人で涙を流しながら抱き合う。

病気のことを聞いてから、きちんと母を抱きしめるのは初めてだった。今後は、もっと手を握ろう。肩を抱こう。抱きしめよう。それでお互い不安が和らぐのなら。

 

県立がんセンター。

ふもとから大きな富士山を見やる時、この大きな建物が視界に入るようになったのは何年前からのことだったか。

覚えていないのは、がんセンターが、自分の生活とは関係のないものだったからだ。

まだ新しく、綺麗な建物。

4Fの造血幹細胞移植棟は全棟無菌室状態で完備されている。

抗がん剤の始まる前、まだ無菌エリアから一般エリアに出ても許される限られた日、家族みんなで上階のレストランへ行った。天気がいい。大きな富士山が見える。

私たちの育った景色だ。私が小さな頃から、またきっと母の小さな頃からも、何も変わらない。

横を見れば、0歳の孫を抱く61歳の幸せな女性がいる。

穏やかの時間の中で、それなのに胸の下のあたりがずっしりと暗く重い。

病気とはこういうものか。

大切な家族が病気だということは、何をしてても、これが最後だったらどうしようという不安が付きまとうことなのだろうか。

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家族の病気を、職場へ報告する

病気の告白の次の日は会社だった。

頭にもやがかかったようではあるが、会社には報告しなければいけないんだろうなという常識が、社会人を8年もしてるとよぎる。

支店長に言わなくちゃ。

ちなみに私は銀行勤めである。

 

朝イチに支店長のところへ行けず、

日中も忙しそうで話せず。

本来なら、直属の上司に話した上で、支店長につないでもらうのだろうか。

でも結婚の報告などとは違うし…

こんなことインターネットで調べる気にもなれない。

直属の上司には、細かく話したくなかったのだ。信頼していないわけではないけれど、直属の上司に話すイコールその同じ役職の人たち全員に知られる という気がした。大体のことはそうやって共有している。

普通の人はどうやって報告してるのだろう。

こんな話、したら絶対私は泣いてしまう。

支店の人みんなに知られるのは嫌だ…。

 

結局、常識外れもいいとこかもしれないが、定時で上がって帰り道に支店に電話して、支店長につないでもらった。

「お忙しいところすみません。昨日私も知ったのですが、私の母が、白血病になってしまいまして…」

出だしから声が震えてしまった。涙でぐじゅぐじゅになりながらも経緯を話す。支店長は大層心配して下さった。「担当上司や周りのみんなには詳しい病名とか話すのがちょっと…」と言うと、快く了承して下さった。「担当上司には俺から簡単に言っておくから。明日また話そう」と。有難い…。

結局、翌日の朝、会議室で今後のことなどを話した。

「家族がいちばん大事だから。」

「お母さんに付いていたい日は、いつでも休むなり早退するなりしていいよ」

本当に、本当に有難いお言葉をいただけた。

また泣いてしまい、すみませんと言うと、

「俺も妹が癌になった時は、泣いてばかりいたよ。」と。

 

直属の上司に初めに言いたくなかったのは、今後の私の身の振り方について、何ら決定権がない彼に話して何になるのだろうという思いがなかったかと言ったら嘘になる。

支店長が休んでいいよと言えば誰も何も言わない。

最初からこんな狡い算段でいたわけではないが、結果として支店長がとても優しい人で、親身になって下さったことでその後の私はとても救われている。

 

病気のことを話して、それで終わりではないのだ。

そこから始まる日々において、それでも仕事最優先でやれよという視線を誰からも受けずに済んだことは感謝してもしきれない。

実際、私は今日まで、事あるごとに有休を使わせていただき母の用事に対応できている。

もしこれで、「そっか大変だけど…仕事に支障が出るようなら言ってね」なんて言われていたら、 有休なんて絶対使えなかっただろう。そして、支障が出るも何も私のやってることなんて誰でも出来るじゃんと泣き、暇な時間でもあろうものならこの時間ママといられたらどんなに良いだろうと泣き、もう辞めてしまおうかと悩み、病気以外のことでの心労も重なり体がついていかなくなり…となることが容易に想像出来る。「仕事とは」という哲学なんて正直今は考えられない。

 

もっと責任感のある人なら、入院する日に心細がる母親がいても、仕事に来るのだろうか。

もっとやりがいのある仕事をしている人なら、骨髄穿刺を外来でやって帰る母親に、自分は迎えに行けないからタクシーを使ってと言うのだろうか。

 

周りを見渡すと、きっとそうするんだろうなという男の人たちばかりだ。

いや女の人でも、私以外の人は、家族が病気でも頻繁に休んだり早退したりしないんだろうなと思う。

でも、私以外の人は、家族が白血病じゃあないもんな。

 

うらやましいな。

 

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骨髄異形成症候群を伴う急性骨髄性白血病

幸いなことに、という表現が正しいのかは分からないが、県でいちばん大きながんセンターが、実家から15分の距離にある。私の家からも車で15分だ。

12月1日から入院。

抗がん剤のスタート。

 

主治医の先生の説明によると。

白血病にもいくつか種類があるが、母は急性骨髄性白血病だという。

それだけでなく、骨髄異形成症候群という症状があること。

異形成なんちゃらとは、血液(赤血球、白血球、血小板)をつくる造血幹細胞が異常をきたし、きちんとした血液が作られない病気。

異形成〜を血液のチンピラとすると、チンピラが更に悪くなったヤクザが白血病(がん)であると。

異形成なんちゃらには、多分ずっと前からかかっていたであろうということ。でも、それがいつ白血病になったかは分からないこと。

また、白血病には、他のがんのようにステージいくつという測り方はないこと。

 

治療の第1ステップとしては、一般的な白血病治療のとおり、抗がん剤寛解導入療法を行う。

これは、1週間の抗がん剤投与を行い、血液中のがん細胞をがん細胞を減らし、具体的には骨髄の中の白血病細胞を5%以下にする(寛解と呼ぶ)目的のもの。しかしこれは正常な血液細胞も破壊してしまう。抗がん剤投与で減りに減った血液細胞が、投与終了後、ヨーイドンで増えていく過程で、がん細胞ではなくて正常な血液細胞がきちんと増えていくことを期待したいと。

ただ母の場合は骨髄の中に異形成なんちゃらのチンピラがいるので、ヨーイドンでチンピラが邪魔をするかもしれない…と。

 抗がん剤投与からのヨーイドンで経過を見るのに約1ヶ月。この寛解導入療法を計6タームやるとのこと。

6ヶ月か…。

ていうか、ただでさえ難しいであろう白血病の治療の、邪魔をするチンピラがいるのか…。

それはショックの追い討ちだった。

 

渡辺謙白血病だったけど治ったよね!」

でも母の白血病渡辺謙のそれとは名前が違った。

「髪の抜けない抗がん剤もあるみたいだし…」

母の抗がん剤はそれではないようだ。

 

11月のあの告白の日から、本やwebで白血病のことを自分なりに調べてきた。

希望を感じる記事や新しい治療法の話題に喜ぶも、母の場合には当てはまらなかったりして、結局は、主治医の先生の方針に託すしかないのだ。

それでも、県西部の医大よりも、母のかかるこの病院の方が人気だよ!安心だよ!という周りの励ましを、根拠は分からないけれど信じるしかないし、母の主治医は物腰も優しくなんたって部長さんだ。

最善の環境で最善の治療を受けて、治してもらうんだ。

 

そう思って自分を励ます。それは今も変わらない。

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